健康で文化的な

ただの日記です。

「世界を欺く商人たち」感想など(ネタバレあり)

今日は朝から「世界を欺く商人たち」を観た。

https://www.youtube.com/watch?v=lf71lbzgORs

煙草業界がいかにして消費者を騙してきたか、というのがメインテーマとなっている。煙草の話から家具に使用されていた難燃剤、そして地球温暖化問題へとつながっていくのが面白い。

まず、最初に出て来るのはマジシャン。映画の合間合間に登場して、「騙す」ことについて解説してくれる。そして、そこから連想するようにして、煙草業界や環境問題懐疑派のやり口に関する話へつながっていく。

私が物心ついたころには、すでに世論は「煙草は健康に悪い」というのが主なものになっていたと思う(少なくとも日本、自分の見える範囲内では)

事実、1950年代には煙草の発がん性が、1960年代には煙草が心臓病への影響を及ぼし、またニコチンが依存性を持っていることが明らかにされていたにも関わらず、1980年代から1990年代には未だ、「煙草が人体に悪影響を及ぼすと決まったわけじゃない」と関係者は主張していたというのだから驚きだ。

この映画の中では、煙草業界がいかにして煙草は健康に害がないと世間に思わせられるか、そのやり口について描かれている。

人体被害の他にも、問題はあった。昔の煙草は灰皿にいれたあとも燃え続けたという。それが火事のもとになってしまうため、自然に消える煙草が求められた。しかし、それは不可能だということで、煙草業界は論点を煙草そのものから「家具」へと変えたのだ。煙草が消えなくとも、煙草が燃えなければ問題はないだろうと、そういうことらしい。「難燃剤」と言うものが導入され、これがまた問題となる。煙草業界側は専門家の意見を取り入れ、難燃剤は有効だとした。そして、難燃剤が家具に使われるようになる。しかし、とうの専門家は自身の実験結果が捻じ曲げられたと主張したというのだ。つまり、難燃剤は無意味なのに使われたということになる。そして、世間はそれを受け容れた。

この映画を通して私は、「欺くこと」「欺かれること」について考えたくなった。目に見えているものの不確かさに恐ろしいと感じた。

マジシャンはいう。

「小さな嘘で大きな嘘から人々の視線を逸らす」

そして、人々は騙される。相手の視線を欺く側にとって都合の良い方へずらしていくのだ。先ほどの難燃剤もそうだろう。煙草について論じられたくないから、家具へと視線をずらした。

そして、煙草の健康被害から「選択への自由」へと論点をずらした。

「煙草を喫う自由を奪った後は、いったいどんな自由を奪うというのか」

「選択の自由を規制されてはたまらない」

そういった主旨の主張をして「煙草が健康に被害を及ぼす」話から視点を逸らしたのだ。

このやり方は煙草業界に限らないと思う。

そして、私たちはつい、それに欺かれてしまう。

実際、この映画を観ていて、私も心当たりはあった。

煙草はともかく、環境問題についてだ。

地球温暖化は実は問題ではない。地球は長期的にみたときに氷河期と温暖期(?)を繰り返しているので、多少気温が高くなったところで問題じゃないのだ」

そんな主旨の意見を、中学生くらいのころに見かけた気がする。

どこで観たかは思い出せないし、記憶違いかもしれないが、それをみたとき私は、

「なーんだ」

と思った覚えがある。先生は京都議定書がどうこうとかいうけれど、それだって私が小さな頃の話だし、科学的に見ていろいろ変化があったんだろう、先生も授業だから、カリキュラムだからやってるんだ、あるいは考え方が古いのかな、とりあえず、地球温暖化問題なんて面倒なこと、考えなくても良いか、と。生活についてとやかく言われるのが面倒だったのもある。

そうやって人は流されていくんだろう。

映画の終盤、地球温暖化について「地球温暖化問題肯定派(懐疑派の反対)」がこんなことを話していた。

地球温暖化問題が人間のせいだと認めるということは、これまでの自分たちの生き方を否定するということだ。反発が起こって当然だ。そこへ地球温暖化問題懐疑派が現れれば、それに賛同したくもなるだろう」

これまでの自分たちの在り方を否定するのが怖いから、あるいは変化するのが不安だから、都合のよいほうへ飛びついてしまう。それが欺瞞であろうとも。

自分たちの在り方を否定しないために、不都合な真実から目を逸らす、というのは人の在り方のひとつなんだろう。それは自然な状態なのだろうと思う。

そんなことを鬱鬱と考えている。それに相変わらず、勉強不足を痛感した。

25歳という年齢に対して、「若いね」と言われることが増えたと思う。

でも、なにかを始めるにはもう遅いくらいの年齢ではないか。いったい、どこまでが「若い」のだろう。

あるいは、もう手遅れの年齢になりつつあるから、慰めと励ましを込めての「若いね」なのだろうか。内心、そんなことを思うけれど、もちろん問うことはできない。万が一、そうだよ、なにかを成し得るにはきみはもう手遅れなんだよ、といわれてしまったら立ち直れないだろうから。これもまた、欺瞞であり、不都合な真実から目を逸らす弱いありかたなのかもしれない。

もう、若くないと自分では思う。

けれど、今後の人生をみたときに、その中で一番若いのは今この瞬間なのだから、悪あがきでも、無意味でも今からでも頑張らないといけないのだと思う。

頭では分かっているのだけど、どうしても憂鬱になってしまう自分が嫌だ。